(左)武沢伸子 《刻.2014》 文部科学大臣賞
(右)矢代ちとせ 《想》 損保ジャパン美術財団奨励賞
※賞の画像は第93回朱葉展受賞者作品より
1918年(大正7年)、当時まだ珍しかった女性洋画家たちの、技術向上と制作発表の活動拠点として旗揚げ。以来、女性洋画家の育成と登竜門の役割を担いながら、多くの有力な作家を輩出してきた。その1世紀近い歴史から、現在までのたゆまぬ歩みをたどる。
(左)三辺節子 《アガパンサスのある庭》 東京都議会議長賞
(右)小西玲子 《夕焼けの米子港》 東京都知事賞
女性だけの洋画家団体が誕生
新時代の文化・芸術が花開き、大正デモクラシーが隆盛を見せ、女性の地位もわずかながら向上しつつあった大正初期。洋画の世界でも、女性の台頭が目立ち始めていた。だが女性作家の中心勢力と呼べるものはまだなく、制作発表も一時のものに終わることが多かったという。そんな時代に、女性洋画家の技術と地位向上を目指して結成されたのが、朱葉会であった。
ときに1918年(大正7年)10月。6名の設立委員は、小笠原貞子、津軽照子、尚百子、津田敏子、小寺菊子、そして与謝野晶子。当時の有力な女性洋画家たちのなかにある与謝野の名は今でこそ意外にうつるが、歌人として名を成しながら、1911〜13年の渡欧中に印象派の絵を学び、帰国後は洋画家の有馬生馬に師事、一時本格的に制作していた。朱葉会の命名も与謝野によるもので、「朱葉」とは彼女の歌集タイトルにも用いられたポインセチアのこと。茎上部の葉が花のような深紅に色づくこの植物は、大正時代にはまだ珍しく、この団体のモダンな華やかさを象徴するかのようだ。
『朱葉会小史』(1990年)より。
*朱葉会展の第1回公募展結成記事と出品作品
設立から昭和20年(1945)までの顧問・審査員には、満谷国四郎、有島生馬、岡田三郎助、安井曾太郎、辻永、藤田嗣冶といった日本画壇の錚々たる顔ぶれが名を連ねた。
*1918年10月朝日新聞掲載の、朱葉会設立の記事(部分)
設立委員6名の顔写真と署名がある。設立から昭和20年(1945)までの顧問・審査員には、満谷国四郎、有島生馬、岡田三郎助、安井曾太郎、辻永、藤田嗣冶といった日本画壇の錚々たる顔ぶれが名を連ねた。
与謝野晶子の38番目にあたる歌集『朱葉集』(部分)。
『朱葉会小史 追補』(2000年)より。
与謝野晶子がパリで描いた油絵《リュクサンブール公園》。
京都府立総合資料館 天眠文庫蔵。
着実な歩みのなかで、個性ある作家たちを輩出
結成翌年の1919年(大正8年)、東京・日本橋の三越呉服店(現・三越)で初の朱葉会展である「第1回女子洋画展覧会」が開催。
『朱葉会小史』に残る当時の新聞の切り抜きの数々には、「繪の巧者な婦人連」「男子も及ばぬ技倆を見せて/閨秀洋畫家の旗揚げ展覧会」といった言葉が踊り、初の女性だけの洋画団体として、大きな注目を集めていたことがうかがえる。
その後も朱葉会展は昭和17年(1942)まで毎年開催され、第二次世界大戦による中断ののち、顧問・審査員制度を廃止し、昭和22年(1947)の第27回展でようやく再開。第1回以来出品を続けてきた吉田ふじを(1887〜1987)を初めとして、清水信子(1912〜2012)ら多くの作家たちの地道な活動により存続、多数の個性ある女性画家を育成・輩出して、現在にいたる。
(左)昭和11年(1936)、第18回朱葉会展ポスター。
(右)吉田ふじを《蘭》制作年不明。
それぞれ『朱葉会小史』(1990年)より。
連綿と続いてきた、絵画への情熱
朱葉会展には現在も、毎年個性的な作品が集まる。公募展のみならず、春と秋の年2回、一般の人も参加できる絵画勉強会を開き、絵画制作の悩みなどの相談を受けるなど、女性らしい細やかな活動も健在だ。特定の派閥や系列にとらわれることなく、画家各自ののびやかで自由な創作意志を尊重するという基本理念が、真剣に絵画と向き合う作家たちをひきつけるのだろう。近年は、若い世代からの意欲的なコンタクトも増えているという。
大正、昭和、平成と1世紀近い年月、女性洋画家の育成と登竜門の役割を担い続けてきた公募団体の、さらなる展開が期待される。
(取材・構成=合田真子)
2015年4月に行われた絵画勉強会のようす。朱葉会ホームページより。
(左)高石和子 《北の四月》 朱葉会賞
(右)西嶋信子《秋の鬼無里のブナ》 清水信子賞
(左)戸嶋桂子 《考えごと》 奨励賞
(右)田辺寿美 《白樺》 与謝野賞
中川弘代《乾杯1》《乾杯2》 新人賞
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